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 ***  ヨーロッパ紀行 バルカン半島5カ国周遊10日間の旅 2  ***
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アルバニア:ティラナ
モンテネグロ:コトル

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クロアチア:ドゥブロヴニク
ボスニア・ヘルツェゴビナ:モスタル
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クロアチア:トロギール
・スプリット・シベニク・ザダール
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クロアチア:プリトヴィツェ国立公園
スロベニア:ブレッド湖・ポストイナ鍾乳洞
 *** クロアチア:ドゥブロヴニク ボスニア・ヘルツェゴビナ:モスタル ***

   1,このページの写真は、2014年6月11〜12日に撮影しました。
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  第3日目(6/11)は昼過ぎまでドゥブロヴニク観光、その後再び国境を越えてボスニア・ヘルツェゴビナのモスタルに移動、モスタル泊。

  クロアチア ドゥブロヴニク 世界遺産:ドゥブロヴニク旧市街

スルジ山にロープウェイで登ります。


お城の上にサッカーでおなじみ
クロアチア国旗

ロープウェイで登る途中、
城壁が見えてきます。

 ドゥブロヴニクは歴史的に海洋貿易によって栄えた都市で、中世のラグーサ共和国アマルフィピサジェノヴァヴェネツィアなどと共に5つの海洋共和国に
 数えられ、アドリア海東側では唯一のライバルである都市国家はヴェネチア共和国だけであった。巧みな外交術と豊富な富に支えられ15世紀から16世紀にかけては
 とくに特筆するほど発展している。1970年代、恒久的に戦争による破壊から守るために非武装化されたが、1991年のユーゴスラビア崩壊に伴う紛争でセルビア・
 モンテネグロ勢力によって7ヶ月間包囲(ドゥブロヴニク包囲)され砲撃により多大な損害を蒙った。・・・出典フリー百科事典ウィキペディア



ロープウェイの下の駅から見た城壁   16mm(35mm換算25.6mm)×2枚 パノラマ写真


ガイドブックでよく見るドゥブロヴニク全景

テラスの上から

右にロープウェイが見えます。


これはパノラマではなく広角写真の上下をトリミング


一番高いミンチェタ要塞の塔、
あの上まで行きます。


城壁まで来ました。



ブジェ門から入りました。



内戦の被害を説明する現地ガイドドブラウコさんと
添乗員小島さん。赤く塗られたところが
被害を受けた。市街地の80%に上るという。
 クロアチア紛争(1991年−1995年) クロアチアがユーゴスラビアからの離脱・独立を目指した戦争。歴史的な対立を背景に
 戦争は泥沼の様相を呈したが、4年の戦争の末に独立を獲得した。・・・出典:フリー百科事典ウィキペディア


プラツァ通り

オノフリオの大噴水 噴水というより水飲み場

誰かがバルコニーに座っている?!


ピレ門

ピレ門の外

右:旧総督邸


ネクタイというのはこの店?から始まった
という。出征する兵士の無事を祈って
着けたのが最初だそうです。
 
内戦で被害を受けたときの写真、現在は修復されている。

ネクタイの起源として伝わる有名な説として17世紀、ルイ13世を守るためにクロアチアの兵士がフランスを訪れた際、彼らが首に巻いていた
スカーフが起源である、というものがある。彼らは無事な帰還を祈って妻や恋人から贈られたスカーフを首に巻いたが、それを見たルイ14世
興味を示し、側近の者に「あれは何だ?」とに尋ねたところ、側近の者はクロアチアの兵士について尋ねられたと勘違いし、「クロアチア兵
(クラバット)です」と答えたため、その布をクラバットと呼ぶようになったという逸話である。・・・出典:フリー百科事典ウィキペディア


大聖堂

大聖堂内部の写真3枚






ルジャ広場聖ヴラホ教会
右端にローランド像

長さの基準ローランド像 肘から手首まで51.2Cmが商取引の基準とされた。

旧港



このあたりから城壁に上る。


上ると港が見えます。


これから城壁を一回りします。
城壁の上は一方通行です。


ドミニコ会修道院             9mm(35mm換算18mm)×3枚 パノラマ写真


↑ドミニコ会修道院                  16mm(35mm換算25.6mm)×3枚 パノラマ写真       


ミンチェタ要塞の塔の一番上の小屋


一応アリバイ写真


オノフリオの大噴水や
フランシスコ会修道院が見えます。


16mm(35mm換算25.6mm)×3枚 パノラマ写真              ミンチェタ要塞の塔↑   


16mm(35mm換算25.6mm)×2枚 パノラマ写真     ↑フランシスコ会修道院の塔     


ミンチェタ要塞の塔の
上から見たピレ門方面

右上がロヴィリイエナツ要塞、
手前の下がピレ門

左と同じところからの望遠写真



   ↑ロヴィリイエナツ要塞              ↑ボカール要塞  16mm(35mm換算25.6mm)×2枚 パノラマ写真


左:ロヴィリイエナツ要塞
右端:ボカール要塞

聖ピーターの砦


約1時間15分で旧港の上まで
戻ってきました。


ボスニア・ヘルツェゴビナの
モスタルに向かいます。

アドリア海東岸は入り江や
島が多く良港が多い。

クロアチア−
ボスニア・ヘルツェゴビナ国境

 クロアチアのドゥブロヴニクからボスニア・ヘルツェゴビナのモスタルに行くとき、複雑に入り組んだ国境地帯を道路が通っているようで、
 クロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナの国境を3回通りました。バスを降りてのパスポートチェックは最後に1回だけでしたが、日本では
 絶対経験できないことでした。

  ボスニア・ヘルツェゴビナ モスタル 世界遺産:モスタル旧市街の 古い橋の地区

ライトアップされたモスク、
月が出ています。

モスタルについた夜、ライトアップされた
橋を見るために出かけました。

橋から見た
コスキ・メフメッドパサモスク

 第4日目(6/12)は午前中、モスタル市内観光、午後は再びバス移動で国境を越えてクロアチアのスプリットへ、スプリットに連泊。


かつては高級ホテルだった建物、
今は廃墟です。

1階は店舗で営業していますが、
2階は廃墟

新しい墓標の目立つ墓地、
もっと大きな墓地もたくさん見ました。

 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は、ユーゴスラビアから独立したボスニア・ヘルツェゴビナで1992年から1995年まで続いた内戦。
 1991年に勃発したユーゴスラビア紛争にともなうユーゴ解体の動きの中で、1992年3月にボスニア・ヘルツェゴビナは独立を宣言。当時、同国には約430万人が住んで
 いたが、そのうち44%がボシュニャク人(ムスリム人)、33%がセルビア人、17%がクロアチア人と異なる民族が混在していた。ボシュニャク人とクロアチア人が独立
 を推進したのに対し、セルビア人はこれに反対し分離を目指したため、両者間の対立はしだいに深刻化。独立宣言の翌月には軍事衝突に発展した。 およそ3年半以上
 にわたり全土で戦闘が繰り広げられた結果、死者20万、難民・避難民200万が発生したほか、ボシュニャク人女性に対するレイプや強制出産などが行われ、
 第二次世界大戦後のヨーロッパで最悪の紛争となった。また、犠牲者たちの中には悲劇的な死を遂げた恋人同士が存在しており、ロミオとジュリエットに似た境遇を
 持つことから「サラエボのロミオとジュリエット」と呼称された。 ・・・出典:フリー百科事典ウィキペディア


  スタリ・モスト(古い橋)

思っていたより小さい橋でした。

橋の上の写真2枚



 スタリ・モストは、ボスニア・ヘルツェゴビナの都市モスタルにある16世紀の橋で、市内を分けているネレトヴァ川に架かっている。町の象徴となっていたこの橋は、
 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中にあたる1993年11月9日午前3時にクロアチア系のカトリック民兵によって破壊されたが、その後復興計画が持ち上がり、2004年
 6月23日に復興工事が完了した。2005年には、ボスニア・ヘルツェゴビナ初のユネスコ世界遺産に登録された。・・・出典:フリー百科事典ウィキペディア


↑スタリ・モスト   16mm(35mm換算25.6mm)×3枚 パノラマ写真     ↑聖ペーター教会


橋の上から下流側


橋の上から上流側、
コスキ・メフメッドパサモスク

下流側から、橋の向こうに
モスクが見えます。


橋からジャンプ、右上から時計回りで見てください。
下で見ていた人はお金を徴収されます。

石の上には機関銃弾やミサイルの部品


橋が破壊されたときの映像

 橋からの飛び込み・ネレトヴァ川へのダイビング:町の若者たちにとっては、橋からネレトヴァ川に飛び込むのが伝統になっている。しかし、川は非常に冷たく、
 かなり危険な芸当であるため、最も上手で訓練を積んでいる潜り手だけが挑むのである。この慣例は橋の建造当初からあったらしいが、記録によって裏付け
 られるのは、1664年以降のことである。1968年には公式な飛び込み大会が開催され、以降毎年夏に行われている。・・・出典:フリー百科事典ウィキペディア



蜂の巣のように弾痕の残る建物
この道を挟んで銃撃戦が行われた。

小さいけど一番古い橋、これも内戦で破壊されてその後修復されたユネスコ世界遺産。

再びクロアチアに入ります。


 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は、第二次世界大戦ではドイツ、イタリアに支配されていたが、戦後にパルチザン勢力を率いる指導者の
 ヨシップ・ブロズ・チトーによって独立を達成する。この国は後に「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、
 二つの文字、一つの国家」といわれるほどの多様性を内包していた。・・・出典:フリー百科事典ウィキペディア
 七つの国境(イタリア、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ギリシア、アルバニア)
 六つの共和国(スロベニア、クロアチア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、マケドニア)
 五つの民族(スロベニア人、クロアチア人、セルビア人、モンテネグロ人、マケドニア人)
 四つの言語(スロベニア語、セルビア語、クロアチア語、マケドニア語)
 三つの宗教(正教、カトリック、イスラム教)
 二つの文字(ラテン文字、キリル文字)
 一つの連邦国家
  さらに、「五つの民族」には含まれていない主要民族であるボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア南西部・モンテネグロ西部(サンジャク地方)に多い
  ムスリム人、セルビア南部のコソボ自治州やマケドニア共和国西部に多いアルバニア人、セルビア北部のヴォイヴォディナ自治州に多い
  ハンガリー人、またロマ人などが存在した。・・・出典:フリー百科事典ウィキペディア

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