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 ***  シルクロードの香り 中国西域8日間の旅 3  ***

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ウルムチ
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トルファン
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敦煌
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西安

 *** 敦  煌 ***

   1,このページの写真は、2016年10月1~3日に撮影しました。
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   柳園南駅から鳴沙山・月牙泉まで、バスで2時間30分ほどの道のりです。ゴビ砂漠(土漠)のようなところを通ります。
 
鳴沙山・月牙泉に向かう途中で、いつの時代のものかはわかりませんが、烽火台などの遺跡が見られます。
 
水が見えるのは疎勒(ソロク)河


白く見えるのは塩、
この辺りでは岩塩が採れるそうです。

 フタコブラクダの群れ、放牧しているのでしょう。


住民が何かの作業をしています。 


 鳴沙山・月牙泉
 
鳴沙山が見えてきました。
 
一応アリバイ写真
 
鳴沙山の麓までは電動カートで行きます。

 鳴沙山: 中国の甘粛省敦煌(市の市街から南5kmにある、広大な砂山。風が吹くと音をたてるので「鳴沙山」と呼ばれるようになった。
 すべて砂が堆積してできたもので、東西の長さは約40km、南北の幅は約20kmあり、山峰は険しく、最高峰は250mである。
 山腹に水波状の砂紋があり、昼夜の温度差が激しく、夏の日中は砂が熱くて登れない。・・・出典:あるホームページ

 
撮影最佳点(撮影に最も適した所)と書いてある
のですが、人が多すぎて絵になりません。足元の
オレンジ色は砂除けカバー、私も借りました。30元
 
鳴沙山に登ります、途中まではこんなのが
あって登りやすいのですが、途中からこれが
なくなると足が砂に取られてとても登りにくい

 20分ほどで尾根上に到着




鳴沙山の尾根上から見たほぼ360゜パノラマ写真    16mm(35mm換算25.6mm)×7枚 

 
月牙泉
 
下に降りてきました。

建物は「聴雷軒」と書いてあります。 

   月牙泉: 中国の甘粛省北西部、敦煌市の南約5km、鳴沙山の北側の麓にある、荒寥とした砂漠の中の泉。東西200m、
   南北50mほどの三日月型をしていることから、こう名づけられた。月牙泉は1000年以上にわたり砂に埋もれることなく
   景観を変えずにいたが、急速な周辺の環境悪化により水位の低下が激しくなり、水域も縮小し始めた。このため、
   敦煌市などによる月牙泉応急保全プロジェクトが取り組まれている。・・・出典:あるホームページ

 
月泉閣
 
月牙(中国語で三日月のこと)泉パノラマ写真  16mm(35mm換算25.6mm)×3枚

 
月泉閣
 
帰りはラクダに乗ります。
 
ラクダに乗った私の影

 

 
こんなのに乗る人もいます。
 
焼き芋屋さんがいました。

 第5日目(10/2)は1日敦煌の観光、莫高窟・西千仏洞・玉門関・漢代長城などを見物します。敦煌賓館に連泊。

 敦 煌 莫高窟 世界遺産:莫高窟
     
  ここはビジターセンター、ここでビデオを見てから乗り合いバスで莫高窟まで行きます。

敦煌青蔵高原の北縁、河西走廊の西端にあり、古くから中国と西域との出入口として使われる。西にはタリム盆地が広がり、北には戈壁灘(ゴビ平原)、南は祁連山脈
ツァイダム盆地を望む。 年平均気温9℃、降水量39mm。作物は主に綿花、小麦、トウモロコシ、果物など。 約250キロメートル東に玉門、300キロメートル北に新疆
ウイグル自治区のクムル(ハミ)が位置している。 昔の関所として、西北約80kmの所にあるのが「玉門関」、南西約70kmの所にあるのが「陽関」。 陽関は、王維の唐詩
「送元二使安西」でも有名。この詩は、友人の西域(安西:現庫車辺り)派遣に際し、王維が咸陽(現西安北西部)で、友人元二を見送る際に綴ったとされている。
最後の行が有名で、「西出陽関無故人(西の方陽関を出づれば故人なからん)」と言い、酒を飲み交わした。・・・出典:フリー百科事典ウィキペディア

 
莫高窟の全景、ただし主要部は左の森の奥にある。   16mm(35mm換算25.6mm)×4枚パノラマ写真

 
一応アリバイ写真
 



 

  莫高窟:敦煌市の東南25kmに位置する鳴沙山の東の断崖に南北に1,600mに渡って掘られた莫高窟・西千仏洞・安西楡林窟・水峡口窟など600あまりの洞窟があり、
  その中に2400余りの仏塑像が安置されている。壁には一面に壁画が描かれ、総面積は45,000平方メートルになる。敦煌石窟・敦煌千仏洞と言った場合、広義では
  この全てを含むことになるが、歴史・規模・内容全てに渡って莫高窟が圧倒しているために敦煌石窟・敦煌千仏洞と言った場合でも莫高窟のことを指すのが普通
  である。作られ始めたのは五胡十六国時代に敦煌が前秦の支配下にあった時期の355年あるいは366年とされる。仏教僧・楽僔が彫り始めたのが最初であり、その
  次に法良、その後の元代に至るまで1000年に渡って彫り続けられた。・・・出典:フリー百科事典ウィキペディア

     

 莫高窟の内部は撮影禁止で面白くない。でも撮影を許可したら見学者が立ち止まって、どうにもならなくなるでしょう。

 
外部にも多少は彩色が残っている。
 

 


 



 
莫高窟のシンボル96窟、
中には高さ34.5mの大仏がある。

 



 
一応アリバイ写真、莫高窟はリュックサック禁止。
仕方がないのでレジ袋を持っています。かっこ悪い!!
 
このガラスの建物は劇場とか。

 
ガラスの劇場の夜景


 

これは映画のセット、右端には
西洋の神殿のような建物がある。
西千仏洞                      
 
敦煌市内から西南30キロ余りの党河北岸に位置する石窟群で、高さ20mほどの
崖の中腹に、約170mに渡って龕窟が並んでいる。ここから先は撮影禁止です。

  玉門関 小方盤城は俗称
 
一応アリバイ写真
 



 

 玉門関は中華人民共和国甘粛省敦煌市の北西約90kmにある、かつて建設されたシルクロードの重要な堅固な関所の1つ。漢と唐2度に渡り建立された。現存する玉門関
 遺跡は唐代のものである。俗称は小方盤城。 唐代の玉門関遺跡 元来は漢代に武帝が河西回廊を防衛する目的で、長城をこの地域に建設し紀元前108年から107年に
 その最西端に建造されたとされる。その後、六朝時代には交通の要綱として栄え、唐代に再建された際は安西の東側に建設された。同じく南西に設置された陽関ととも
 に、その最西端に北ルートを通ると玉門関、南ルートでは陽関を通過していた。宋代になって西域交通が衰え、衰退した。・・・出典:フリー百科事典ウィキペディア

 


 玉門関パノラマ写真  16mm(35mm換算25.6mm)×2枚

 
玉門関パノラマ写真    16mm(35mm換算25.6mm)×4枚パノラマ写真

 
↑玉門関             玉門関パノラマ写真    16mm(35mm換算25.6mm)×5枚パノラマ写真

     

 漢代長城
 
一応アリバイ写真
 
手前側が長城の内側、向こう側が長城の外

 

  漢代長城:敦煌から西へおよそ100kmの所に、西域北路の関所だった「玉門関」がある。そこからさらに西へ10kmのところに、「疎勒河(そろくが)」
  沿いに延びる城壁跡が残っている。秦の時代に築城が始まった万里の長城よりも少し後の漢代に築城された長城跡である。 ・・・出典:あるホームページ

 
この近くに瓜洲という町がある。文字どおり瓜の町!!
 
夜光杯の工房に寄りました。

夜光杯の製品、あまりきれいとも思えないですが。 

 第6日目(10/3)は朝から敦煌市博物館・白馬塔をまわり、夕方18:15敦煌発の上海航空の便で西安に移動、天城凱菜大酒店に2連泊。

 敦煌市博物館
 
西域の先駆者、張騫
 
馬にまたがる美女
 


 
班超
 

 



 

 西域の人たちからも人望を集めた班超が西域都護として活躍しているあいだ、諸国はみな漢に服属していました。そしていつしか西域を治めること30年。もう70歳
 を過ぎた班超は望郷の念に耐えられずに上申します。 --自ら寿を全うして屯部に終わらば誠に恨むところなし。然りといえども、後世あるいは臣を名ざして西域に
 没すと為さん。臣敢えて酒泉郡に至を望まず、願わくば生きながらにして玉門関に入らんことを。-- 彼の願いは聞き入れられ漢土である敦煌を目指します。
 望みは叶い生きて玉門関をくぐることができました。さらに都洛陽にたどりついた班超はそれから一月足らずで亡くなります。・・・出典:あるホームページ

     

 白馬塔
     

 白馬塔は386年に建てられ、敦煌市の西にある七里鎮白馬塔村にあります。4世紀末頃、亀茲国出身の高僧-鳩摩羅什が敦煌を
 訪れた際、経典を積んでいた白馬が死んでしまったことを悼み建立されたといわれています。・・・出典:あるホームページ

 
敦煌賓館前の道路

 
今日はこのホテルでこの人たちの結婚式が
ありますと、派手に宣伝しています。

結婚式に闖入してしまいました。
 

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