*** ヨルダンとチュニジア 遺跡巡り10日間の旅 5 *** |
*** ヨルダン ワディラム砂漠と小ペトラ *** |
1,このページの写真は、2013年2月15〜16日に撮影しました。
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第8日目(2/15)はバルドー博物館・ピュルサの丘のローマ遺跡やカルタゴ遺跡・シディ・ブ・サイドなど、
終日チュニス市内観光、ガマルタに連泊。
バルドー博物館 * 床のモザイクを保護するために、靴にビニールカバーをつけて入館します。
バルドー博物館にはたくさんのローマ時代のモザイクがあります。じゅうたんを持たなかった古代ローマ人は
床をこれらのモザイクで飾っていました。
バルド国立博物館での銃乱射事件:2015年3月18日にチュニジアの首都・チュニスのバルド国立博物館で、外国人観光客が武装した
男2人組に襲われた事件である。 この中に日本人3人の死亡と3人の負傷を確認した。・・・出典:フリー百科事典ウィキペディア
右端のモザイクは、ドッガの遺跡から移設したホメロスの叙事詩 オデッセイアとセイレーンの物語を描いたものです。 帆柱に縛られて
いるのがオデッセイア。右手の青い衣のセイレーンが 美しい歌声でオデッセイアを誘惑しています。・・・出典:あるホームページより
ピュルサの丘 古代
カルタゴやローマの遺跡が重なっています。世界遺産:
カルタゴ遺跡

チュニス市街が一望できる丘。左の海は地中海(チュニス湾)です。 15mm(35mm換算24mm)×3枚パノラマ写真 |
サン・ルイ教会は、
第8回十字軍遠征に参加しチュニス包囲戦のさなか亡くなった、フランス国王
ルイ9世のために建造された。
 上のパノラマ写真と同じようなところから見たチュニス市街 15mm(35mm換算24mm)×2枚パノラマ写真 |
カルタゴ博物館 カルタゴ博物館はピュルサの丘にある博物館
ポエニ戦争 ローマ軍が、
メッシーナのカルタゴ軍を攻撃したことで、約1世紀にも渡るポエニ戦争が始まった。西ヨーロッパにおける
ローマの覇権を確定し、もって西ヨーロッパの命運を決めることになったこの戦いは、3つの大きな戦争からなる。
第一次ポエニ戦争 (紀元前264年 - 紀元前241年)
第二次ポエニ戦争 (紀元前218年 - 紀元前202年)
第三次ポエニ戦争 (紀元前149年 - 紀元前146年)
ポエニ戦争では、第二次ポエニ戦争でカルタゴの将軍
ハンニバル・バルカがイタリア半島に侵攻し卓越した指揮能力を発揮し、ローマ陥落
の一歩手前まで陥らせるなどの事態もあったものの、最終的にはローマが常にカルタゴに勝利した。第三次ポエニ戦争のカルタゴの戦い
によって、カルタゴは滅亡し、ローマの政治家・軍人である
スキピオ・アエミリアヌスの指示のもと、度重なるカルタゴの侵略への報復と
して、市民は徹底して虐殺され都市は完全に破壊された。このカルタゴ陥落の際にスキピオはカルタゴの運命と自国ローマの未来を重ねた
といわれている。 再三災いをもたらしたカルタゴが再び復活することがないように、カルタゴ人は虐殺されるか奴隷にされ、港は焼かれ町
は破壊された。陥落時にローマが虐殺した市民は15万人に上り、捕虜とした者も5万人にも上ったとされる。カルタゴの土地には雑草一本
すら生えることを許さないという意味で塩がまかれたという。・・・出典:フリー百科事典ウィキペディア
ローマ人の住居跡
 遺跡の向こうの国旗がたくさん見える建物は大統領官邸 15mm(35mm換算24mm)×3枚パノラマ写真 |
カルタゴ遺跡 トフェ
ここは
タニト神とバールハモン神の聖域。古代カルタゴの遺跡。ここで人間の赤ちゃんを生贄として捧げたというが、
その後灰を分析した結果どうも人間の灰ではなく、動物の灰ではないかということが分かった。ということは動物を
生贄として捧げたのではないかと。・・・出典:あるホームページより
塩野七生著「ローマ人の物語」によれば、ローマ人は風呂好きで、ローマ市内の公衆浴場に時の皇帝がふらりとやってきて、
庶民と一緒に入浴したこともあるという。ただし、皇帝アントニヌス・ピウスがチュニジアに来たという記録は無いはず。
シディ・ブ・サイド
シディ・ブ・サイドの住宅は、アラブ建築、アンダルシア建築の組み合わされたもので、鮮やかな白い壁に青い扉が特徴である。曲がりく
ねった小路が行き当たりばったりに散らばっている。1915年8月28日、村の景観保護の政令が導入され、1909年からシディ・ブ・サイド
に邸宅をかまえていたロドルフ・デルランジェ男爵の愛する青と白が強制され、岬の上へ無秩序な建物建設を禁じられた。こういった措置
は世界で初めてシディ・ブ・サイドで指定された。・・・出典:フリー百科事典ウィキペディア
 ミントティを飲んだカフェから見たパノラマ写真 15mm(35mm換算24mm)×2枚 |
食事の写真集
春巻きのようなパリっとした皮を持つ
ブリックという料理、チュニスの昼食に3回も出ておいしかったけど、日本人としては醤油がほしかった。

2月14日の昼食、猪の料理
あんまりおいしくない。 |

最後の夕食は伝統音楽マルーフを聴きながら
チュニジアの郷土料理を食べました。 |

乗り継ぎのパリの空港に
着陸直前に見えたパリの街 |
第9日目(2/16)は、パリ経由で帰国の途に、第10日目(2/17)9:20成田着、午後1時ごろ無事帰宅しました。
今回のツアーは最近読んでいる、塩野七生著「ローマ人の物語」にゆかりのローマ遺跡やカルタゴ遺跡・アントニヌス帝の浴場跡等たくさんの
遺跡を見ることができました。 特に塩野七生が絶賛するローマ街道の、1ローママイルごとに建てられた道標の実物など貴重なものが見られ
アラビアのロレンスのロケ地ワディラム砂漠、ペトラ遺跡やドゥッガ遺跡など、期待どうりの景観を楽しむことができて、満足の旅でした。
かつて仕事で海外出張に行っていた40〜50歳代のころは、東南アジアなどで英語も通じないような現地料理のレストランに入って、わから
ないメニューで適当に料理をたのんでも、出てくる料理のハプニングを楽しんで、問題なく食事をしていましたが、最近はどうも外国で料理が
おいしく感じません。これは年のせいでしょうか。特に飛行機の機内食がまったく食べられません。今回もビジネスクラスなのでそんなにわる
い料理ではなかったと思いますが、ぜんぜん食べられず、帰りの機内ではおなかがすいてしまい、機内をうろうろしていたらカップラーメンが
あったのでそれを食べたら、これが一番おいしく感じました。おかげで旅行前より体重が3Kgほど減りました。まったく困ったもんです。
今回のツアーは割とマニアックな旅で、4組のご夫婦と1組のご姉妹、それに男性2人と女性4人の一人参加というグループ
でしたが、すぐにうち解けて楽しく旅を終わることができ、ありがとうございました。添乗員の後藤さん、お世話になりました。
旅なれた皆さんのこと、また世界のどこかでお会いすることもあるかもしれません。それまでお元気で、さようなら。
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