*** ヨーロッパ紀行 ポーランド8日間の旅 5 *** |
1,このページの写真は、2018年6月4日〜6日に撮影しました。
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第6日目(6/4)午前中、アウシュビッツ強制収容所とビルケナウ強制収容所に行きました。ビルケナウ強制収容所は
アウシュヴィッツ第2強制収容所ともいいます。午後はフリータイム。クラクフ市内で昼食後、ショッピング。
最後にもう一度バベル城に行きました。ラディソン ブル ホテル クラクフに連泊。
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所 世界遺産:
アウシュヴィッツ・ビルケナウ ナチス・ドイツの強制絶滅収容所(1940年-1945年)
 アウシュビッツ強制収容所の門 |
 400Vの2重の電気柵 |

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ARBEIT MACHT FREI (働けば自由になる)と記されている。Bの文字が上下反転している。
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所とは、ナチス・ドイツが第二次世界大戦中に国家を挙げて推進した人種差別による絶滅政策
(
ホロコースト) および強制労働により、最大級の犠牲者を出した強制収容所である。収容された90%がユダヤ人であった。現在のアウシュ
ビッツ収容所博物館および公式ページでは、1999年の研究により1944年までに強制収容されたユダヤ人は110万人であり、そのうち20万人は
労働に供されたと書かれている。 ニュルンベルク裁判では、「アウシュヴィッツで400万人が死亡した」と認定し、オシフィエンチム博物館の碑
文にもそのまま「400万人」と記載されていたが、冷戦後の1995年「150万人」に改められている。・・・出典:フリー百科事典ウィキペディア

ユダヤ人がどこから連れてこられたか説明する日本人現地ガイド中谷さん。 |

残されていたフィルムの写真5枚
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中谷さんが指さしている人物は医者、直接ガス室に
送るか、労働をさせるかの選別をしている。 |
これらの写真は、ドイツ軍が撤退する際に置き忘れたカメラに残されたフィルムを現像したという。
今回の観光初日(5/31)、ショパンの家に行ったバスの中で「
戦場のピアニスト」という映画をDVDで見ました。ワルシャワ蜂起を描いた
映画でしたがその中で、ひどいユダヤ人弾圧の場面を見て、この日
アウシュビッツの現場を見て、言葉を失いました。
日本人現地ガイド中谷さんが強調したのは、
ヒットラーは選挙で選ばれたということでした。「正当な選挙で選ばれたのだから
何をしてもよい」「選挙で選ばれた人を批判するのは間違っている」、という理屈で、独裁権力を確立していったという。
最近、日本の権力者が選挙で選ばれた多数派を背景に、傲慢な政治をしているのを見ると、少し心配になります。
 毒ガス「チクロンB」 1缶で150人を
殺せたという。もともとは殺虫剤 |

大量のメガネ
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義足、当時は第1次世界大戦で
負傷した障害者がたくさんいたという。 |
使用したガスは「チクロンB(防疫施設で伝染病を媒介するノミやシラミの退治にも使用)」で、効率良く処刑を行うための
研究班を配し「32分で800名の処刑が可能であった」とされる。死体は施設に備えられた焼却炉や焼却壕などで処分され、
この作業には
ゾンダーコマンド(囚人によって組織した労務部隊)があたった。・・・出典:フリー百科事典ウィキペディア

トランクの山、名前や出身地が書いてありますが
これらが持ち主に返されることはなかった。
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大量の靴の山
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おしゃれな靴が見えます。許された小さなトランク
に替えの靴など入らない。一番良い靴を
履いてきたのでしょう。 |
大量の毛髪が保存されている部屋は、遺族の感情に配慮して、撮影禁止でした。

何千人ものユダヤ人が銃殺されたという死の壁 |

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コルベ神父の記念碑 |
コルベ神父は、ポーランドのカトリック司祭。アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で餓死刑に選ばれた男性の
身代わりとなったことで知られ、「アウシュビッツの聖者」と呼ばれる。カトリック教会の聖人で記念日は命日8月14日、
囚人番号は16670。・・・出典:フリー百科事典ウィキペディア
コルベ神父は1930年から1936年、長崎などで宣教活動を行った。

大型のガス室はドイツ軍が撤退するときに爆破されたが、この小型のガス室は破壊を免れた。
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ガス室、シャワーを浴びるとして
ここに連れ込まれた。 |
アメリカ軍は空撮でガス室の位置を把握していたのに、ガス室を爆撃せず、軍需工場の爆撃を優先させたと、戦後批判された。

毒ガスが投入された穴 |

死体焼却炉、これらの作業はユダヤ人がやらされた。 |

一部保存された鉄道線路 |
ビルケナウ強制収容所(アウシュヴィッツ第2強制収容所)
アンネの日記の作者、アンネ・フランクは、1945年3月5日ここで亡くなった。
アウシュヴィッツからバスで10分ほどのところにあるビルケナウ強制収容所 総面積は1.75平方キロメートル(東京ドーム約37個分)。
 監視塔からパノラマ写真 16mm(35mm換算25.6mm)×4枚 |
 360°パノラマ写真 16mm(35mm換算25.6mm)×7枚 |
アウシュヴィッツ・ビルケナウでは場所柄、記念写真は禁止されている。中国人観光客などが喜々として写真を撮っているのには違和感を覚えました。
 3段ベッドが並んでいます。 |

女性棟のトイレ |

麦畑に囲まれたビルケナウ強制収容所 |
トイレにトイレットペーパーなどあろうはずがありません。でも、最も不潔な場所は監視兵の目の
届かぬ最も安全な場所、ここで出生して戦後まで生き延びた人が何人もいたという。
クラクフに戻るバスの車窓から撮った写真3枚
 こんなところに飛行機がいました。 |

こんなのをよく見かけました。 お地蔵さんのような感じか?! |

トラムの引き返し所、ぐるっとUターンします。 |
クラクフに戻りました。
食事の写真集 帰りのフィンエアービジネスクラスの食事
第7日目(6/5)は帰国日。朝、クラクフ発ヘルシンキ経由のフィンエアーで第8日目(6/6)の8時20分ごろ成田着、
午前11時ごろに無事帰宅しました。
13世紀
モンゴル軍の撤退により空いた土地に、国王による都市化促進政策の一環として、ユダヤ人もドイツ人と一緒に招聘された。
14世紀にはヨーロッパ大陸での反ユダヤ主義に対し、ポーランド国内法の宗教的・民族的寛容さから多数のユダヤ人が移住してきた。
こうして多くのユダヤ人がポーランドに住むようになったのに、ヒットラーの時代になって、
ホロコーストという大変な目にあいました。
ポーランドにおけるホロコーストでは300万人が殺害され、ヨーロッパ全体では600万人のユダヤ人が殺害されたといわれる。
こんな目にあったユダヤ人が戦後
イスラエルという国を作り、それを必死て守ってきたのは理解できます。
でも、それだからこそ、その為に難民になった
パレスチナの人々に、もう少し同情的な態度がとれないのかな、と思います。
ポーランド人は熱心なキリスト教(
カトリック)信者が多く温和な印象を受けるが、サッカーでは
FIFA ランキング8位の強豪、ワールド
カップ・
ロシア大会では日本とポーランドは1次リーグ同組で、6月28日の日本対ポーランド戦は0対1でポーランドの勝利でした。
でも、日本の1次リーグ突破、バンザイ!!
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