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福田のデジカメ写真ギャラリー海外編トップ 
 ***  中央アジア周遊17日間の旅 2  ***
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キルギス

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カザフスタン

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ウズベキスタン
タシケント・ヒワ
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トルクメニスタン

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ウズベキスタン
ブハラ・シャフリサブス
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ウズベキスタン
サマルカンド・タシケント

 *** カザフスタン ***

   1,このページの写真は、2012年9月15日〜18日に撮影しました。
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   最初の国境通過は、人間はすんなりと通れたのに、バスがキルギス籍のためか、カザフスタンになかなか入れず
   結局2時間ほどかかってしまいました。

   カザフスタン 

カザフスタンの大草原

村の小さなモスク

ロシア正教の教会が見えてきました。

   第5日目(9/16)は朝、アルマティ市内観光をしてからタラズまで600Kmの長距離移動、
   途中何度も青空トイレを経験して、21:00にタラズのホテル着。

 カザフスタンの最大都市アルマティ 日本ではアルマトイと言われることが多いが、現地ガイド・エルメックさんに確認したらアルマティが正しいそうです。

アルマティのオトラルホテルに入った時、結婚式が
ありました。花嫁さんは日本人観光客(つまり我々)
の拍手を浴びてうれしそうでした。
 
早朝、散歩に出たらホテルの近くにロシア正教の教会がありました。
ゼンコフ正教教会 塔の上に八端十字架六端十字架が輝いています。


カザフスタン国立中央博物館の写真2枚

博物館内は撮影禁止だったので外からパチリ

自転車旅行の夫婦のようです。

  バスの車窓からの写真5枚

こんな道を延々600kmも走りました。


地平線とバスの影


外国の踏み切りで実際に
止められたのは初めてでした。


蜂蜜やさん

羊飼い

青空トイレで停まった時に見た、大草原の夕日

 第6日目(9/17)はタラス川の古戦場・アイシャ・ビビ廟を観光しながらトルキスタンに移動、世界遺産:ヤサウィ廟を見て徒歩でホテル着。



タラズの町の中心部にあるこれらの建物は
大統領の与党の党事務所だそうです。

タラス河畔の戦いの古戦場

古戦場を見下ろす丘の上のモスク




川の手前側にアッバース朝軍、対岸に唐軍が
布陣。寝返った遊牧民カルルクが唐軍の
背後に回り、唐軍は壊滅した。

 タラス河畔の戦いは、751年7月〜8月に、中央アジアのタラス地方(現在のキルギス領)でイスラム帝国アッバース朝の間で行われた
 戦闘である。唐とアッバース朝の中央アジアの覇権を巡る天下分け目の戦い、製紙法が西方に伝播した戦いとして有名である。 ズィヤード
 の率いるアッバース朝軍と高仙芝率いる唐軍は、天山山脈西北麓のタラス河畔で衝突した。 戦いの最中に唐軍に加わっていた天山北麓に
 遊牧する遊牧民カルルクがアッバース朝軍に寝返ったために唐軍は壊滅し数千人を残すのみとなり、高仙芝自身は、フェルガーナの軍中
 に血路を開くことで撤退には成功したものの、多くの兵士が捕虜となった。アッバース朝軍は唐軍5万人を殺し、2万人を捕らえたという。
 唐軍の捕虜の中に製紙職人がいたとされ、サマルカンドに製紙工場が開かれてイスラム世界に製紙法が伝わった。教科書にも載っている
 有名な戦い。今は当時のものは何も残っていない。・・・出典:フリー百科事典ウィキペディア


タラス河畔の戦いの古戦場の全景   15mm(35mm換算24mm)×3枚パノラマ写真

  アイシャ・ビビ廟 





左:アイシャ・ビビ廟。
右:乳母のババジ・カトゥン廟。

アイシャ・ビビ廟のお土産やのおばさんの持っている
のは馬用の鞭こんなのをお土産に買った人が
いましたが、何にするのでしょう。
 アイシャビビの伝説:カラハーン朝の君主はサマルカンドで商人の娘アイシャと恋に落ち、結婚を誓い合います。君主はアイシャを連れ、
 タラスへ出発しようとしますが、アイシャの父はこれに反対し、アイシャは家に閉じこめられてしまいます。君主はひとりでタラズへ戻り
 ます。 しかし、娘に同情した母親は、乳母のババジ・カトゥンを付けてアイシャをタラスへと旅立たせました。アイシャは、君主に会う
 前にタラス川で身を清め、花嫁衣装を付けました。そして、草の上に置いたベールを手に取りました。ところが、ベールにひそんでいた
 毒蛇に咬まれてしまいます。そのことを知った君主が駆けつけ、瀕死のアイシャを抱き上げ、司祭に結婚式を挙げてもらい、彼女以外の妻
 を持たないこと、立派な廟を建てることを誓いました。まもなく、アイシャはビビ(妃)となって息絶えました。・・・出典:あるホームページより

 ホッジャ・アフメド・ヤサウィ廟 世界遺産:ホッジャ・アフメド・ヤサウィ廟 この地方で活躍したイスラムの聖人ヤサウィがまつられています。

ヤサウィ廟の前にいたフタコブラクダ



ドームが工事中で残念


結婚式の新婚さん、
日本人のカメラの放列に照れていました。




ヤサウィ廟の前のどこかの王様の廟


三脚を使わないのでうまくパノラマが撮れません。
15mm(35mm換算24mm)×2枚パノラマ写真

ヤサウィ廟と馬蹄形のモニュメントと
若いお二人 お幸せに

ヤサウィ廟のライトアップ


  第7日目(9/18)はオトラル遺跡に行った後、2回目の国境越えでウズベキスタンの首都タシケントへ、タシケント泊。


朝、出発前にもう一度行ったヤサウィ廟。朝日を浴びてきれいです。 これはパノラマではなくて、広角写真をトリミング


綿花畑の向こうに、ディーゼルカーが走ります。

ラクダの放牧

バスの前をラクダが横切ります。

  オトラル遺跡 オトラル事件のあったところですが当時のものは何もなく、後世(18世紀ごろ)の遺跡が残っている。

 オトラル事件:国境を接する、西方のホレズム帝国と外交関係を進めるために、1218年6月、チンギス・ハーンは使節を派遣した。
 500頭のラクダに、東方の珍貨などを積んで、ホレズムへとキャラバンを組んだ。 途中のオトラルを通過するときだ。ホレズム王の
 スルタン・ムハンマドに贈るはずの金銀財宝の総てが、オトラルの代官によって、略奪されてしまったのだ。使節を含む450人のうち、
 1人を残して、ことごとく殺戮された。命からがら逃げ帰ったラクダ使いによって、オトラルでの一件が、チンギス・ハーンに伝えられ
 たのだった。それに激怒したチンギス・ハーンは、翌1219年に、ホレズム討伐に向かったのだ。以後、留まることのない、西方遠征
 続けられたのだった。 もしも、この「オトラル事件」がなかったならば、チンギス・ハーンの中央アジア遠征もなく、歴史は変わっていた
 かもしれない。・・・出典:あるホームページより

 オトラルでは、命あるものは全て殺せというチンギス・ハーンの厳命で、人間はもちろん家畜や犬猫まで殺され、町は徹底して破壊され、
 平地に還されたという。


オトラル遺跡パノラマ写真    15mm(35mm換算24mm)×3枚

  食事の写真集

9月16日夕食  オムレツみたいなもの

 
9月17日昼食 マントゥイ(肉団子)と牛肉のシシガバブー とてもおいしかった。
(添乗員・飯野さんのレポートでは羊肉になっていますが、私の記録では牛肉になっています。)


9月17日昼食と9月18日昼食は
同じレストラン

9月18日昼食 水餃子とチキンの
シシカバブー

このチキンは地鶏なのでしょうが
チキンとは思えぬほどおいしかった。

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