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福田のデジカメ写真ギャラリー海外編トップ 
 ***  トルコ 奇景と遺跡めぐり10日間の旅 5  ***
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ポアズカレ

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カッパドキア

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コンヤ・パムッカレ

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エフェソス
イズミール・ペルガマ
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トロイ・ダーダネルス海峡
エディルネ
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イスタンブール


 *** トロイ・ダーダネルス海峡・エディルネ ***

   1,このページの写真は、2013年5月13〜14日に撮影しました。              
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  トロイ 世界遺産:トロイの考古遺跡

カズ山(イダ山)トロイア戦争にも
登場する有名な山

有名なトロイの木馬
最近修復が終わった。

まん中の大木がトロイ樫
木馬はこの木材で作ったという。

 トロイア戦争アガメムノーンを総大将としたアカイア軍(ギリシア勢)はイリオスに上陸、プリアモス王の王子ヘクトールを事実上の
 総大将としたイリオス軍と衝突した。多大な犠牲を出しながら戦争は10年間続き、アカイア軍の間には次第に厭戦気分が蔓延しはじめた。
 しかし、アカイア軍の将オデュッセウスは一計を案じ、エペイオスに木馬を造らせた。この、トロイアの木馬の詭計によってイリオスは
 一夜のうちに陥落した。陥落したイリオスから逃げ出すことができたのは、アイネイアースなど少数の者たちだけだった。
 アイネイアースはトロイア滅亡後、イタリア半島に逃れて後のローマ建国の祖となったといわれる。・・・出典:フリー百科事典ウィキペディア


イーリオス市の城壁の入口、トロイア戦争で木馬は
ここから城内に引き込まれたという。木馬の大きさ
などはこれから推測された。

7層からなるという城壁の最上部、
この下に6層埋まっているらしい。











リスがいました、近づいても逃げない。

ハインリッヒ・シュリーマンによって発掘が行われるまで、イリアスは神話上の架空都市にすぎないというのが一般的な概念であった。 この
ような常識に対し、シュリーマンは、幼いころにイリアスの子供向けの物語を読み、イリアスは実際に起きた出来事をもとにした物語だと考え
たと述べている。彼はトロイアを発掘することを決意し発掘の資金を集めるために商人になる。1868年、彼はトロイアのあった場所としてダ
ーダネルス海峡西端のチャナッカレ近郊にあるヒッサリクの丘に見当をつけた。アキレウスヘクトールを追い回すことができるような場所、
近くにイリアスに書かれた川(スカマンドロス河)があるような場所が他にないというのが彼の説明である。 1870年、シュリーマンは、私財
を投じてトロイアの発掘を開始。この発掘には既に功績を挙げたオリンピア発掘隊もかかわっている。シュリーマンの狙いは正しく、彼は曲輪
に囲まれた遺跡を発掘した。ヒッサリクの丘の遺構は複数の層から成っており、シュリーマンは火災の跡があった第II層をトロイアだとした。
しかし、後の研究の結果、この層はトロイア戦争があったとされる時代よりも前の時代のものであった。・・・出典:フリー百科事典ウィキペディア


古い地層はテントで保護しています。

保護しないと溶けてします。

説明をする現地ガイド、ケナンさん


紀元前3000年からの地層が重なっています。






ダーダネルス海峡が見えてきました。

 
チャナッカレのホテルのそばから見た海峡
左の写真はエーゲ海側 右の写真はマルマラ海


陸地の中央、茶色い建物が泊まったホテル。
15mm(35mm換算24mm)×2枚パノラマ写真

ダーダネルス海峡をバスごと渡ります。


   第7日目(5/14)はダーダネルス海峡をバスごとヨーロッパ側に渡って、
   エディルネの世界遺産を観光した後、イスタンブールに移動して2連泊。


ヨーロッパ側が近づきました。
 
ヨーロッパ側に上陸。やはりヨーロッパの香りがします、なんてことはありません。

  エディルネ 世界遺産:セリミエ・モスクとその社会的複合施設群

オスマントルコ帝国時代に作られた
メリチ川にかかるメリチ橋
ミマール・スィナンの作品

こちらもオスマントルコ帝国時代に
作られた橋 ここからブルガリア国境
まで数Kmしかない。

セリミエ・モスクが見えてきました。



    エディルネは古名ハドリアノポリスと言い、378年にローマ帝国皇帝ウァレンス率いるローマ軍とゴート族との戦闘
    (ハドリアノポリスの戦い)がおきた。この戦いでローマ軍は敗退し、以後トラキア地方はゴート族に占領されるこ
    とになった。英語表記によるアドリアノープルの戦いとも称される。・・・出典:フリー百科事典ウィキペディア


世界遺産:セリミエ・モスクの写真6枚

左の銅像のおじさんはこの建物を建てたトルコの
ミケランジェロといわれる建築家ミマール・スィナン
彼はこのとき90歳だった。

セリミエ・モスクの中庭


これはお祈り中ではなくてお祈りのあとの
説教だそうです。お祈り中は異教徒は
立ち入り禁止です。





  1414年建造のエディルネ現存最古のエスキ・モスクの写真6枚



これはオスマントルコ帝国の紋章

左は「アラー」と書いてあるらしい。


軍の建物だというのにカメラを向けたら兵隊さんに
両手を上げて制止されました。両手を合わせて
謝ったら許してくれました、多分?!

イスタンブール市内に入ってきました。
これはローマ時代のヴァレンス水道橋

渋滞の車列の間をパンを売り歩く人、
結構売れていました。

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